晴天の霹靂だった。

イヴァナの本の出版が決まり、LAにティーチャー・トレーニングに出かけようと、意気揚々としていた2015年の初頭のある日だった。福岡の母と一緒に住んでいる親戚の叔父さんから電話がかかってきた。

母が、大腸がんと診断されたのだという。

しかも余命6ヶ月・・・・

そして母はそのことを知らないのだそうだ。

これはさすがにショックだった。

母はそれまで、僕が知る限り、大きな病に罹った事はなかった。

母自身、我慢強い人で、自分の身体の状態に関して、弱音をはいたりすることはなかった。

そして、親戚の叔父さんから電話がかかってきた、ということは、母自身、自分の状態がそれほど悪いとは思っていないのだと想定できた。

大きな葛藤、そして決断

母は、入院をした話はしてくれたが、特に深刻ぶるわけでもなかった。

穏やかな母、いつもの母親だった。

ただ一方で、僕の中には大きな葛藤が生まれていた。

今後の自分の身の振り方をどうすべきか?

という問題だった。

その年、イヴァナ・スタジオでのティーチャー・トレーニングは1月後半から3月後半までの2ヶ月間が予定されており、僕は既にロスに行くことを決めてしまっていた。

もし、余命6ヶ月というのが事実なら、母の命は6月くらいまで、ということになる。

可能性としては、もっと早い時期に具合が悪くなる可能性だってある。

そんな時期に、外国に行くべきなのか?

僕の中では大きなジレンマだったが、自分の中での結論は早めについた。

ここで、ティーチャー・トレーニングに行かないことを決めて日本にいたとしても、出来ることは大して変わらない。

6ヶ月間、何もせずに母の近くにいるという事はできなかった。

何らかの形で仕事をしながら、母の状態を気にしつつ、状態が本当に悪くなったら駆けつける、そういう感じだろう。そう考えた時、それは東京であろうとLAであろうと、大して変わらない、と思った。

もちろん、状態が本当に悪くなったら、LAからでもすぐに駆けつける。

そのことは決めていた。

イヴァナには、その旨を伝え、了承を得た。

人生の選択

母には、これまで以上に密にコミュニケーションを取ることを約束した上で、2ヶ月間、ロスに行ってくる、と伝えた。

母自身、まだくたばるつもりはなかったことが幸いだった。

僕は、余命宣告をされた母を残し、2ヶ月間のティーチャー・トレーニングを受けるという決断をした。

この決断が正しかったのか、間違っていたのか、それは正直、わからない。

この時、LAに行っていなければ、僕は間違いなく認定講師の資格は取れていないし、高橋一哲氏も認定講師にはなっていなかったかもしれない。

イヴァナが日本にどう伝わるかには大きな影響が出たのではないだろうか。

人の人生に、たら、れば、はあまり意味がない。

結果として、僕はティーチャー・トレーニングを無事に終え、日本に戻ってきた後、母が亡くなるまでの数カ月間を一緒に過ごし、その最後を看取った。

母が亡くなったのは、この年の5月12日だった。

母との関係は、僕にとって、イヴァナ的に言えば、一生、ネタとして使える永遠の未解決の問題だった。

イヴァナが自分の母親を、ずっと引き合いに出し続けるように、僕も、自分の母親は永遠に使い続けられると信じている。

我慢強かった母は、人生においていろいろな事を我慢したのだろう、と思う。

癌で亡くなる人は、基本、頑固だという課題があると言われている。そして、その傾向を僕は母の中に見出したし、当然、自分の中にもその傾向があることを感じている。

もし、神様がいると仮定したら、神様は僕が主人公のドラマにおいて、僕という素材を使って、最高のドラマを作ってくれるはずだ。

母との葛藤は、母が生きている間に解決はしなかったけれど、人生の主人公として僕がここから最高の人生を歩むことで、あの母がいてくれたお陰で、という文脈にストーリーを変える事ができるはずだ。

僕が今までの経験を全て昇華することによって、母のすべてを正解にすることができる。

イヴァナの本の後書きで、この本を母に捧げることが出来たことで、その最初の一歩を踏み出せたのだと思う。

お母さん、あなたのおかげで、
僕はこんな素晴らしい人生を歩む事ができました。

僕がいつか言うせりふは、絶対にこのせりふに決まっているのだ。