どうしても許せない気持ちがある。
今まで作られてきた数多くの映画の主人公たちの深層心理や行動を紐解いていくと、対象相手へのそんな「許せない気持ち」が大きなガソリン(燃料)になっていることに気づきます。
時に恋人や家族、友達、組織の上司であったり、宿命のライバルであったり。
映画「ウォーリアー」という格闘技を題材にとった映画も、まさにこの「許せない気持ち」、父親への確執や兄弟の修復しがたい亀裂を、どう手放して自分自身の人生を取り戻すのかにフォーカスして作られた作品ではないかと思います。
2019年のイヴァナチャバック・ワークショップでも採用された映画「ウォーリアー」を材料に、今回は「許せない気持ちを手放す対処法」について考察してみたいと思います。
映画「ウォーリアー」に潜む許せない気持ち
2011年に全米公開された「ウォーリアー」は、ごく簡単にいうと、格闘技という題材を扱って描いた「家族再生の物語」です。
映画「ウォーリアー」で家族崩壊を招いた諸悪の根源は、優秀な格闘技トレーナーであるもののアル中だった父親・パディ(ニック・ノルティ)の存在でした。
父親の暴力から逃れるため母親と一緒に家を出た次男坊のトミー(トム・ハーディ)が、 14年ぶりに父親の元に現れることで、映画のストーリーは勢いよく転がり始めます。
学生時代、レスリング選手としてトミーは、高額の賞金が懸けられた総合格闘技「スパルタ」に出場するため、父親にコーチ役を依頼するわけです。
14年もの長きに亘り家を離れ、しかも家族を崩壊に追い込んだ父親に近寄ってくるという事実関係から見ても、格闘技で賞金を得ることはトミーにとって、とても大きな意味を持つことだと容易に想像できる展開です。
一方、トミーの兄で元総合格闘家の長男・ブレンダンは、今ではすっかり格闘技から足を洗い、高校で物理の教師をして妻と子3人の幸せな家庭を築いている設定。
ですが、突如、彼の一人娘が難病を患い、高額な医療費によって家を差し押さえられるような、経済的な破綻寸前の状況に陥ってしまいます。
これが運命の悪戯なのか、長男・ブレンダンは娘の医療費を払い家族を守るために、高額の賞金を得るため、再び総合格闘技「スパルタ」のリングに舞い戻ることに・・・。
そして、その結果、決勝の雌雄を分けるブレンダンとトミーという兄弟対決が映画のクライマックスでは待っているわけです。
家族崩壊を招く原因となった父親、そして、今は亡き母親をめぐる兄弟の確執、それぞれが心に秘めた許せない気持ちに自分を奮い立たせ、肉と肉がぶつかり合う壮絶な戦いが繰り広げられます。
そして、その過程でかつて海兵隊に所属して戦地に赴いていたトミーが、父親の家に戻ってきた思い、意外な秘密のエピソードに思わず胸の熱くなる大きな感動が待っています。
ぜひ、一度ご覧になってみてください。
映画「ウォーリアー」のスタッフ&キャスト
制作スタッフ
監督 | ギャヴィン・オコナー |
脚本 | ギャヴィン・オコナー |
アンソニー・タンバキス | |
クリフ・ドーフマン | |
原案 | ギャヴィン・オコナー |
クリフ・ドーフマン | |
製作 | ギャヴィン・オコナー |
グレゴリー・オコナー | |
製作総指揮 | マイケル・パセオネック |
リサ・エルジー | |
デヴィッド・ミムラン | |
ジョーダン・シュア | |
ジョン・J・ケリー | |
音楽 | マーク・アイシャム |
撮影 | マサノブ・タカヤナギ( 高柳 雅暢) |
編集 | ジョン・ギルロイ |
ショーン・アルバートソン | |
マット・チェシー | |
マット・チェッセ |
出演キャスト
役名 | 俳優名 |
ブレンダン・コンロン | ジョエル・エドガートン |
トミー・コンロン | トム・ハーディ |
パディ・コンロン | ニック・ノルティ |
テス・コンロン | ジェニファー・モリソン |
フランク・カンパーナ | フランク・グリロ |
ジト校長 | ケヴィン・ダン |
コルト・ボイド | マキシミリアーノ・ヘルナンデス |
ブライアン・カレン | ブライアン・カレン(本人) |
サム・シェリダン | サム・シェリダン(本人) |
イヴァナチャバック・ワークショップ雑感
先ほども書きましたが、この映画「ウォーリアー」は、2019年のイヴァナチャバック・ワークショップでも採用された映画でした。
演じられたシーンは、アトランティックシティで開催される格闘技イベント「スパルタ」の開催前夜。14年ぶりに兄弟2人が煌びやかなネオンの光が印象的な真っ暗な夜の砂浜で再会するシーンです。
この場所設定も、光(未来)と影(過去)という監督の心憎い演出だと思いますし、兄は明かりを背負い、弟は闇を背負っている配置は、生と死それぞれがこれまで背負ってきたものを映像で表現していた素晴らしいシーンだと思います。
このシーンで際立つのは、兄弟の立ち位置や考え方がまったく噛み合わない、兄弟であるのに、お互いが長い間持ち続けた「許せない気持ち」の爆発を懸命に押えこもうとするかのような、鬼気迫る兄弟の言葉の応酬です。
イヴァナのいうように、人は常に自分勝手で、どんなに身勝手な自己中心的な思いであろうとも、「自分の本当に欲しいもの」を手に入れるために勝ちに行こうとするものです。
それが演技を通して観客にケミカルな作用を及ぼし、共感や感動を生むのだということが、イヴァナの度重なる「勝ちに行け!」という俳優陣へのコーチングに表れていた、そんな印象的なシーンワークでした。
さて、では本題でもある「許せない気持ち」を手放す対処法とは、一体この映画ではなんだったのでしょう?
それは、ずばり決勝戦の肉と肉とのぶつかり合い。言葉を超えた互いの拳を突きつけ、互いが感じる強烈な痛みや思いの共有ではなかったでしょうか?
そして、その互いの交わす拳の応酬で学んだものは、「許す」という感情ではなかったかと想像します。
「許せない」のは、「許す、ことが出来ない」ということ。
こんな当たり前のことをこの映画から学んだように思います。
相手に対して許せない気持ちを手放すには「自分の痛み同様に、相手の痛みを受け止めて共有すること」。相手に対して許せない気持ちを手放すには、まず「相手を許してもいい」と「自分に許可を出すこと」ではないかと思います。
人は他人の心を自分の思うように変えることはできません。
でも、自分の心なら簡単に変えることができるのですから、相手を許せない人は、まず自分を許してあげることがきっと手放すことに繋がるのだと思います。参考になれば幸いです。